神の血を受け継ぐ者 - sample



 弱々しい月明かりが、闇夜を走る幼い女の子の髪に光を注いでいる。
 彼女は息を弾ませながら、目の前の布をくぐるようにしてアギャリーの中へと駆け込んだ。
 番人を置かない夜のためだろう、炎は小さくなっており、しかしその赤々とした力強さは彼女の白い肌をも染めている。
「どうしたらいいの、神様」
 五歳になったばかりの女の子、メルは、寝間着のままだった。
 上に羽織りすら着ていないというのに、頬は上気し、炎のせいばかりでなく赤く火照り、涙に濡れている。それを拭いもせず、小さな手を握り合わせて部屋の中心に奉られた炎を真っ直ぐに見上げた。
 神の炎が奉られた石造りの神殿は、入り口をくぐった一部屋がすべてだ。石の冷たさと炎の熱とが交じり合わずに、しかし喧嘩することもなく両側から彼女に温度を与え、そして奪っていく。
「わたしは、神様のこと、きらいなのかもしれない」
 か細い肩が震わせながら、メルは握り合わせた手に額をこすりつけた。
 その震えは、決して寒さのせいだけではない。恐怖だ。メルは、自分の内に潜む感情に怯え、震えている。
 まだ彼女はその感情の名前を知らなかったが、とても恐ろしいものが芽生えていることは自覚していた。その恐ろしいものを神に対して抱いている自分が、怖くて仕方がないのだ。
「どうしたらいいの、神様がきらいなんて……」
 お腹の底から、何度も何度も息が吐き出される。こらえきれなくなった嗚咽が声になってあふれ、狭いアギャリーの中に響いた。
 助けて!
 幼い女の子の背中は、そう懇願している。
 誰か、助けて!
 苦しいのだ、どうしようもない感情を、どう処理するべきなのか途方に暮れることもできずにいる。
 年に数度見る神々の記憶の断片に、アフラー神の血を受け継ぐ彼女の夜は脅かされている。千年前、この地で確かに息づいていた神々の最期を、彼女は何度も夢の中で目撃しているのだ――その感情すらまるきり同じになって。
 自分のものではない、神様の記憶。
 できることならば、心を痛めることすら投げ出したい。しかしそうするにはメルの感受性は強すぎた。泣いて解決しないことはわかっているが、父母や一族の者に迷惑をかけたくなかった。他の者は夢など見ないのではないかと疑いたくなるほど、悲しみを露わにしなかった。
 メルは、幼心に自身も我慢しなければと思った。目覚めれば、夢の詳細は忘れてしまう。我慢できると思った。
 戦火に散る返り血の温度すら覚えた神々の記憶をまどろみの中へと見失う夜半、涙に濡れた目を暗闇の中で見開き、息をひそめ、次は安らかな眠りを得ようと祈るように背中を丸めて布団の中に潜り込んだ。
 それなのに神々の記憶は忘れられても、しかし感情は拭えなかった。
 どうしても。
 彼女は泣き場所を求めた。


 あえぐようにして聖炎の前で手を組み合わせて泣くメルの背中に、触れるものがあった。
「いやっ」
 メルは驚いて、跳ねるようにして後ろを振り返る。
「ごめん、びっくりした?」
 その背中を追って、少年は再び手を伸ばす。メルと同じくらいの歳の頃で、肌が浅黒い以外、特に変わったところはない。普段はやんちゃな表情を作るであろう大きな目が、不安げな色を浮かべていた。
「あ……」
 嗚咽はすぐに収まらなかったが、思いもよらぬ少年の登場に、メルの涙は引っ込んだ。
 見たことのない男の子。
 村の子どもではないと思ったが、彼が着ている服は村のものだ。メルは世界各地を渡り歩く何人もの巡礼者を見ている。他の土地の者がまとっている布と、村で織られる布が違うことは、幼い目に見ても明らかだった。
 呼吸が整わずにいることを恥ずかしく思うメルに、少年は自分の羽織をかけ、ゆっくりと彼女の背中をさすった。
「だいじょうぶ?」
「うん、もう、へいき。ありがとう」
 笑ってみせると、少年も「良かった」と笑顔になった。先ほどまでの不安げな表情からは想像もできないような笑顔。心から喜んでいることが、伝わってくるようだ。
 それを見て、メルは本当に元気になれる気がした。いま初めて会ったばかりなのに、メルは彼のことをすっかり信頼していた。
「あなた、どこの子?」
「あ、おれ、ミナシゴなの。きょうからダイナって人んとこ住んでる。この村、アギャリーがあるって聞いてさ。あしたでも良かったんだけど、どうしても見たくって」
「じゃあ、ひとりで来たの?」
 村の南西に位置するダイナの家から、川を挟んで北に位置するアギャリーまでは、子どもの足ではそれなりに時間のかかる距離だ。
「だってダイナ、ぜったい、だめだって」
「帰ったら怒られちゃう」
 今度はメルが心配そうにした。優しくも厳しいダイナは、こんな夜中に子ども一人でアギャリーに来ることを許してはくれないだろう。
「んー、でも、来て良かったよ」
 しかし少年は平然とした調子でメルの頭を撫でた。
 その撫でかたは不慣れで、髪が彼の指に絡みつくのをメルは感じたが、決していやなものではなかった。むしろ心地良く思え、さきほどまでの恐ろしい感情などすっかり忘れている。
「つぎに泣くことがあったら、言ってくれよな」
 メルは不思議そうに目を瞬かせた。
 少年は照れくさそうに視線をそらすと、アギャリーの出口へと向かう。「そろそろ戻ろうっと」
「あ、ねえ、なまえは? わたしはメル」
 布に手をかけながら、少年は振り返った。
「おれは――」
 そのとき、少年のものではない手が外から布をつかみ、大きく開かれた。外気が流れ込んできて、炎のおかげですっかり暑くなった二人の頬を冷やす。
「カナン! こんなところにいたのか」
「わ、ダイナ!」
 立っていたのは、さきほど噂したばかりのダイナ。村一番の力持ちと言われる彼は、その厚く大きな手で、カナンと呼んだ少年の頭を鷲掴みにした。
「いたた! ごめん、でも神様にあいさつしたくて」
「メルさまも」カナンの言い分を無視し、その小さな瞳がこちらを向いたとき、メルは少しどきりとしたが、
「神祭司が探しておったぞ」
 そう言う彼の表情があまりにも悲しそうで、メルはなんと答えて良いのかわからなくなってしまった。
 夢のことは、ダイナも知っている。だからメルがここにいる理由も、きっと察知しているのだろう。
 他人に迷惑をかけたくないと思っていながら、結局はかけてしまった。しかも、家を抜け出したことが知られてしまうという形で。皆、心配してくれているだろう。村に寄り添うようにして広がる森には、真獣と呼ばれる凶暴な獣たち棲んでいるのだ。メルだって、父が行方不明になれば真っ先に真獣に襲われたことを考えてしまうのに。こうなるのなら、きちんと部屋を訪ねて不安を訴えたほうが、きっとずっとましだった。
 そう反省する反面、どうして大人は子どもが家から抜け出すのがわかるのだろうと、メルは不思議に思う。
 三人は一緒に外へ出たが、川を渡ったところにメルの父がいたのでそこで別れた。目深にフードをかぶった父は心配そうに、しかし静かに怒っており、黙ったままメルの額に優しく拳を押し当てた。
「帰ろう。母さんが待ってるよ」
 彼女の父はこの土地のアギャリーを守る神祭司だ。母は身体が弱く、外に出られない。こういうとき、いつだって迎えに来てくれるのは父だった。優しく、彼女のことをとても大切に考えてくれている。
 けれども父にこの胸の内を話していいものか、メルは迷った。
(神様が、きらい……)
 さきほどまで胸を占めていたその感情は、いまは嘘のように晴れている。しかしその言葉に頭が支配されたことも間違いはない。これは、もしかすると恐ろしいことなのかもしれない。神の血を受け継ぐ者として、あってはならないものなのかもしれない。
 父がそこにいるという実感は、繋がれた手で交換される温度だけ。言葉はそこにない。フードの下から覗く自身と同じ色の瞳は、決してこちらを向かない。
 どうして家を抜け出したのかは訊かれない。
 夢を見たせいであると思っているのだろう。事実その通りだが、しかしその先にあるこの感情を、メルが口にしなければ、彼は知らないままだ。そして、きっと打ち明けることはないだろうとメルは考えた。この血を裏切らないためにも、ひみつにしなければならないと思ったのだ。
 メルはこっそりカナンのほうを振り返った。
 ダイナに手を引かれて行くカナンもこちらを見ない。何か、楽しそうに話をしている様子だ。
 メルは前を向いて、父の手から伝わる温度を確認する。遙か千年も昔に生きた神々の記憶を見ることができても、こうして体温を分けあっている人間の気持ちを知ることは、言葉を通じてでしか叶わない。
 彼になら打ち明けてもいいと思った。
 あの元気な瞳を持つ、カナンになら。
 次に夢を見たときはきっと、打ち明けよう。


 しかし幼いながらも目まぐるしい日々にその決意は忘れられ、十年の月日が流れた。

 二人はもうすぐ十五になろうとしている。

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