√YOCOHACHIsm - sample - 小説本文

0512年

 リリスは店を出て左手を広げて見た。
 小指のほうに、黒い筋ができている。インクの染みだ。さっき、伝票に名前を書いたときに軽く擦ってしまったためだろう。運良く伝票の汚れは軽く、ごまかせる程度だったけれど、どこか幸先が悪いと思わずにはいられない。
 もしくは緊張していたのだろうか、自分が。
 その思いに到達し、彼女は少しだけ笑った。けれどもすぐに頬を硬くし、口を結ぶ。何のためらいもなく笑えたら、どんなに楽だろう。それができない、ということが、今の彼女に余裕がないことを示していた。そしてそのことを彼女は自覚して、更に笑えない気分に落ち込むのだった。
 ただサインをしただけのことなのに。
 リリスは右手につかんだ伝票に目を落とす。
 受取日は明日。また明日、ここに来る。
 そして、あの箱を開ける。
 冷たい風が、彼女の肩までの髪をふわりと揺らした。冷たく、けれども冬のきんと澄んだ心地はなく、のどをくすぐるそれはわずかに春の気配を漂わせていた。心地いい。リリスは目を細める。落ち着こう。そう自分に言い聞かせて、帰路につく。
 ガルス暦五一二年、三月――。
 彼女の婚約が決まってから、一ヶ月が経とうとしていた。

0735年

「……あ、この箱可愛い」
 次の指輪に取り掛かろうとして、私が拾い上げたその箱つは、手のひらに乗るくらいの大きさだった。けれど、正面と側面に綺麗な装飾の金板が貼られ、鍵穴までついて、小さい割になかなか凝ったつくりをしていた。蓋の真ん中には金色の、四つ葉のような小さなマークが描かれていて、マークの中心には赤い石がはめ込まれている。もっと派手な装飾の箱は幾つもあったけれど、その、シンプルながらとても丁寧に作られている感じが私の気に入った。どれ? とお姉様が覗き込んできて、あら、と首を傾げる。
「可愛いけど、紋が違うわね。そのマーク、うちの紋と似てるから間違えちゃったんだわ」
 続いてグリーノお兄様が、私の持った箱と自分の箱を見比べて、
「あ、この箱と似てるね」
「本当だ! 貸して! 」
 言うが早いかブルーノお兄様に箱を取り上げられてしまった。二人はお互いの箱をくっつけあって、くすくす笑う。
「ははっ、この箱たちも双子だね」
「うん、僕らの方が似てるけどね」

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