
0.
寄せては返す波の音が、ケイトの耳元を撫でるようにたゆたっている。周囲はきらきらとした光に満ちあふれているのに、彼女は目を細めることなくその場に立ち尽くしていた。
幼いケイトはある男の影に呑まれていた。
言葉を交わしたかどうかは分からない。ただその男が、どういった男であるかは分かっていた。大きな手のひらが伸びてきて、小さな頭の上に載せられる。
ざざん……ざざん……
まるで急かすように近づいて来る潮騒から逃れるかのように、男は短いマントのようなものを翻す。瞬間、ケイトから影が引き、彼女は光に呑まれたが、その視界が眩むことはなかった。男に被せられた麦わら帽子が、彼女の視界を守ったのだ。
1.
まぶたを開くと夫の後頭部が見えた。
少し灰がかった茶色の、短く刈りそろえられた髪ははね、思わず手を伸ばして触りたくなるほど美しくたくましいうなじは、朝日を受けてますます白い。朝のまどろみの中、その誘惑に抗うことなく少しの間その感触を楽しむと、ケイトはふと寝返りを打った。
外の風景を床から天井まで切り取った窓は、海を眺めながら眠れるようにとカーテンを開け放ったままだ。反して冷たい風が入って来ないようにと、ガラス戸は閉ざされている。
ケイトは半身を起こし、確かめるように耳を触る。
部屋は静かだ。潮騒の音など聞こえない。
あれは、夢の中の音だったのだ。ケイトが思い出せる夢は本当に曖昧で、とても幼かった自身が何をしていたのかも思い出せない。目の前の男が誰だったのかは、おおよその見当がついたが。
ベッドの下に脱ぎ捨てられた部屋履きに足を入れ、少し目立ち始めたお腹に手を添えて立ち上がる。ガラス戸を開け、家々の屋根を飛び越えた向こう側に広がる一面の海を眺めた。
「ただいま」
眩しくて、目を細める。手を額に当てて、影を作った。
ただいま、トレドル。ただいま、幼い私を育てた海。
この街は、彼女が15年前まで住んでいた港町だ。何しろ7歳の頃の話なので、街の細部はよくよく思い出せないが、今、眼前に広がっている海の青さと、この夏の日差しは覚えている。
背後で気配がして、けれどもケイトは振り返らずに、彼女を包み込む腕に身を任せた。お腹の前で交差された大きな手に右手を重ねる。
「おはよう、ケイト」夫のロンが彼女の額に口づけをして、お腹を優しく撫でた。「おはよう、かわいい子」
「ロン、おはよう」ケイトも、ロンの白い腕に唇を寄せた。
ロンは無言で頷く。まだ頭がぼんやりとしているのだろう、起きたばかりの彼は、昼間とは比べ物にならないほど無口だ。
彼の腕に包まれたケイトは、そのゆったりとした動きに身体を預けていたが、突然振り解いてロンと向き合った。
「ねえ、市場へ行きましょうよ。朝の市場って、凄く楽しいのよ」
ロンは幸福そうに微笑んで、無言でその提案を了承した。
支度に一時間かかり、道に迷ったこともあって、結局市場へ着くのは昼に近い頃だった。すっかり太陽は高く、黄味がかった灰色の石畳を白く照らしている。海に近い市場は舶来物が中心に置かれていて、どれもが珍しく、それでいて格安だった。ケイトは珍しい食器や雑貨に目を輝かせるロンの後を、ゆっくりと歩く。
5つ年上とはいえ、王都で生まれ育った彼は、まるで子どものようだ。そしてそんな幸せそうな彼の姿を見ていることが、ケイトにとっての幸せだった。
だから料理好きのロンが自分の食堂を持ちたいと言ったときも、店を構える街が、それまで住んでいた王都ではなく、もっと庶民的な発展途上の街が良いと言ったときも、賛成した。二人はそれぞれ末っ子で、家に縛られることは一切なかった。
ロンは、食材をそれにふさわしい料理に仕立て上げたり、旅先の料理をユーモアたっぷりに解説したり、台所をきれいに保つ才にはとても長けている男だった。しかし、なんでも美味しいと感じる味覚を持っているのか、本当に良い食材を見抜いたり、それに見合った値段で買い物をしたり、そのために交渉をしたりといったことが苦手だ。
「ケイト、これ、どうだい?」
「これは?」
「いいだろう、ケイト、これが欲しい!」
面白そうなものを見つけては、ケイトに確認する。彼は自分の欠点を自覚しているし、また、商家の娘であるケイトの目を信じていた。
ずっと親が取引しているさまを見て育ったケイトは、兄たちに負けず劣らずの目利きだ。露店で宝石の値段を当てるゲームなんて、夢中になって参加した。交渉だって得意だ。こんな女っぽくない長所を、夫のために使える。家事は苦手のため、それがとても嬉しくて、楽しかった。
しかしまさか、かつて住んでいた土地に戻ろうとは。
この街に目をつけたのは、ロンだ。ケイトは誘導していない。
けれども何か、惹かれるものは確かにあった。この港町に戻りたいと、心のどこかで思っていた。7歳まで住んだ、高い丘を抱え込んだ半島の街。15年の息苦しい王都生活の中で思い出す海はどこか開放的で、自由だ。
実際の記憶はすっかり色褪せている。印象に残っていた風景をまどろみの中へ紛れさせるのに、15年という歳月は充分だった。
疲れを感じ、ケイトは小さなオープンカフェで一休みすることにした。カフェといってもカウンターとベンチが二つあるだけの簡素なものだ。フルーツジュースを頼み、舶来物なのだろう、目新しいデザインの青いベンチに腰掛ける。大きな黒い瞳の浅黒い肌をした女の子が、ケイトのところへグラスを運んできた。
「ありがとう」
表面に水滴がついたグラスを受け取ってケイトがそう述べると、まだ幼い女の子は無言で頭を下げ、カウンターの奥へと戻って行った。にこりともしない目は、警戒している目だ。海の向こうから来たばかりなのかもしれない。
そう、ここは、王都よりも海外の人間が多い。人口が増え続けるこの街へ、もちろん国内各地からも、仕事を求めて人間が集まって来る。ケイトたちも同じだ、他の土地から、店を持つためにここへやって来たのだから。けれども裕福な土地から来たという点に置いて、彼らとは決定的に違っていた。王都より生活水準を落とす必要はあるが、この街では充分平均的な暮らしだ。もちろん王都に住まう人々全員が裕福であったわけではない。格差はあった。ただ、身近なものではなかった。
ケイトはグラスを傾けた。刺激の強い、それでいて爽やかで冷たい甘い液体が、咽喉から胃へと滑り落ちた。
15年前の記憶など、夢の中のように曖昧だ。しかし一つだけ、確かなことがあった。
この街には義賊がいる。
裕福な家から金品を盗み、貧困層に施しをする、義賊が。
「ケイト、これ、プレゼント」
突然ロンの声が聞こえて来たかと思うと、ふっと視界が暗くなった。
思わず頭に手をやる。
帽子だ。
「この帽子が好きって、話してたよね。あっちで見つけたんだ。これくらい、買ったって構わないだろう?」
つやつやとした麦わらで編まれた広いツバが、指先に心地良い。幼い頃、外国のこの帽子を毎日かぶっていたという話を、ロンは覚えてくれていたのだ。
「ありがとう、ロン。嬉しいわ」
帽子をかぶり直し、立ち上がると、グラスを店のカウンターへと運ぶ。先ほどの女の子が出てきて両手を差し出したので、ケイトはそれを渡した。
「美味しかったわ」
頭を撫でてやると、女の子は少しだけ微笑んだ。
当時はケイトも幼かったので、義賊がどういった存在だったのか、よく理解していなかった。それは王都へ移り住んでから、兄たちの会話の中で得た知識だ。
ここへの引っ越しが決まったとき、ケイトは義賊の話を、ロンにしたことがある。しかし彼は真面目に受け止めず、夢のような話だねと、ただ目を細めるだけだった。
想像できなかったのかもしれない。金品を貧しい人たちにばらまくという行為を。
まだいるかしら、というケイトのつぶやきに、15年も昔の話だろうと返された。会話はそれきりになった。けれども確かに幼いあの日、兄たちと夢中になって屋根の上を走る義賊の背中を探した。まだ明るさが残る青い海、灯台からの光が眩しいあの場所で、大きなあの手に風に流された麦わら帽子をかぶせてもらった。夢ではない。確かな記憶だった。ぬくもりも、言葉も、何も思い出せないけれど、その広い影だけは強くケイトの心に残っている。
その義賊は、ノンフェイスと呼ばれていた。
生まれた土地ながら、知り合いも身寄りもない生活が始まる中で、その事実は彼女の心を暖かくするのだった。
少し灰がかった茶色の、短く刈りそろえられた髪ははね、思わず手を伸ばして触りたくなるほど美しくたくましいうなじは、朝日を受けてますます白い。朝のまどろみの中、その誘惑に抗うことなく少しの間その感触を楽しむと、ケイトはふと寝返りを打った。
外の風景を床から天井まで切り取った窓は、海を眺めながら眠れるようにとカーテンを開け放ったままだ。反して冷たい風が入って来ないようにと、ガラス戸は閉ざされている。
ケイトは半身を起こし、確かめるように耳を触る。
部屋は静かだ。潮騒の音など聞こえない。
あれは、夢の中の音だったのだ。ケイトが思い出せる夢は本当に曖昧で、とても幼かった自身が何をしていたのかも思い出せない。目の前の男が誰だったのかは、おおよその見当がついたが。
ベッドの下に脱ぎ捨てられた部屋履きに足を入れ、少し目立ち始めたお腹に手を添えて立ち上がる。ガラス戸を開け、家々の屋根を飛び越えた向こう側に広がる一面の海を眺めた。
「ただいま」
眩しくて、目を細める。手を額に当てて、影を作った。
ただいま、トレドル。ただいま、幼い私を育てた海。
この街は、彼女が15年前まで住んでいた港町だ。何しろ7歳の頃の話なので、街の細部はよくよく思い出せないが、今、眼前に広がっている海の青さと、この夏の日差しは覚えている。
背後で気配がして、けれどもケイトは振り返らずに、彼女を包み込む腕に身を任せた。お腹の前で交差された大きな手に右手を重ねる。
「おはよう、ケイト」夫のロンが彼女の額に口づけをして、お腹を優しく撫でた。「おはよう、かわいい子」
「ロン、おはよう」ケイトも、ロンの白い腕に唇を寄せた。
ロンは無言で頷く。まだ頭がぼんやりとしているのだろう、起きたばかりの彼は、昼間とは比べ物にならないほど無口だ。
彼の腕に包まれたケイトは、そのゆったりとした動きに身体を預けていたが、突然振り解いてロンと向き合った。
「ねえ、市場へ行きましょうよ。朝の市場って、凄く楽しいのよ」
ロンは幸福そうに微笑んで、無言でその提案を了承した。
支度に一時間かかり、道に迷ったこともあって、結局市場へ着くのは昼に近い頃だった。すっかり太陽は高く、黄味がかった灰色の石畳を白く照らしている。海に近い市場は舶来物が中心に置かれていて、どれもが珍しく、それでいて格安だった。ケイトは珍しい食器や雑貨に目を輝かせるロンの後を、ゆっくりと歩く。
5つ年上とはいえ、王都で生まれ育った彼は、まるで子どものようだ。そしてそんな幸せそうな彼の姿を見ていることが、ケイトにとっての幸せだった。
だから料理好きのロンが自分の食堂を持ちたいと言ったときも、店を構える街が、それまで住んでいた王都ではなく、もっと庶民的な発展途上の街が良いと言ったときも、賛成した。二人はそれぞれ末っ子で、家に縛られることは一切なかった。
ロンは、食材をそれにふさわしい料理に仕立て上げたり、旅先の料理をユーモアたっぷりに解説したり、台所をきれいに保つ才にはとても長けている男だった。しかし、なんでも美味しいと感じる味覚を持っているのか、本当に良い食材を見抜いたり、それに見合った値段で買い物をしたり、そのために交渉をしたりといったことが苦手だ。
「ケイト、これ、どうだい?」
「これは?」
「いいだろう、ケイト、これが欲しい!」
面白そうなものを見つけては、ケイトに確認する。彼は自分の欠点を自覚しているし、また、商家の娘であるケイトの目を信じていた。
ずっと親が取引しているさまを見て育ったケイトは、兄たちに負けず劣らずの目利きだ。露店で宝石の値段を当てるゲームなんて、夢中になって参加した。交渉だって得意だ。こんな女っぽくない長所を、夫のために使える。家事は苦手のため、それがとても嬉しくて、楽しかった。
しかしまさか、かつて住んでいた土地に戻ろうとは。
この街に目をつけたのは、ロンだ。ケイトは誘導していない。
けれども何か、惹かれるものは確かにあった。この港町に戻りたいと、心のどこかで思っていた。7歳まで住んだ、高い丘を抱え込んだ半島の街。15年の息苦しい王都生活の中で思い出す海はどこか開放的で、自由だ。
実際の記憶はすっかり色褪せている。印象に残っていた風景をまどろみの中へ紛れさせるのに、15年という歳月は充分だった。
疲れを感じ、ケイトは小さなオープンカフェで一休みすることにした。カフェといってもカウンターとベンチが二つあるだけの簡素なものだ。フルーツジュースを頼み、舶来物なのだろう、目新しいデザインの青いベンチに腰掛ける。大きな黒い瞳の浅黒い肌をした女の子が、ケイトのところへグラスを運んできた。
「ありがとう」
表面に水滴がついたグラスを受け取ってケイトがそう述べると、まだ幼い女の子は無言で頭を下げ、カウンターの奥へと戻って行った。にこりともしない目は、警戒している目だ。海の向こうから来たばかりなのかもしれない。
そう、ここは、王都よりも海外の人間が多い。人口が増え続けるこの街へ、もちろん国内各地からも、仕事を求めて人間が集まって来る。ケイトたちも同じだ、他の土地から、店を持つためにここへやって来たのだから。けれども裕福な土地から来たという点に置いて、彼らとは決定的に違っていた。王都より生活水準を落とす必要はあるが、この街では充分平均的な暮らしだ。もちろん王都に住まう人々全員が裕福であったわけではない。格差はあった。ただ、身近なものではなかった。
ケイトはグラスを傾けた。刺激の強い、それでいて爽やかで冷たい甘い液体が、咽喉から胃へと滑り落ちた。
15年前の記憶など、夢の中のように曖昧だ。しかし一つだけ、確かなことがあった。
この街には義賊がいる。
裕福な家から金品を盗み、貧困層に施しをする、義賊が。
「ケイト、これ、プレゼント」
突然ロンの声が聞こえて来たかと思うと、ふっと視界が暗くなった。
思わず頭に手をやる。
帽子だ。
「この帽子が好きって、話してたよね。あっちで見つけたんだ。これくらい、買ったって構わないだろう?」
つやつやとした麦わらで編まれた広いツバが、指先に心地良い。幼い頃、外国のこの帽子を毎日かぶっていたという話を、ロンは覚えてくれていたのだ。
「ありがとう、ロン。嬉しいわ」
帽子をかぶり直し、立ち上がると、グラスを店のカウンターへと運ぶ。先ほどの女の子が出てきて両手を差し出したので、ケイトはそれを渡した。
「美味しかったわ」
頭を撫でてやると、女の子は少しだけ微笑んだ。
当時はケイトも幼かったので、義賊がどういった存在だったのか、よく理解していなかった。それは王都へ移り住んでから、兄たちの会話の中で得た知識だ。
ここへの引っ越しが決まったとき、ケイトは義賊の話を、ロンにしたことがある。しかし彼は真面目に受け止めず、夢のような話だねと、ただ目を細めるだけだった。
想像できなかったのかもしれない。金品を貧しい人たちにばらまくという行為を。
まだいるかしら、というケイトのつぶやきに、15年も昔の話だろうと返された。会話はそれきりになった。けれども確かに幼いあの日、兄たちと夢中になって屋根の上を走る義賊の背中を探した。まだ明るさが残る青い海、灯台からの光が眩しいあの場所で、大きなあの手に風に流された麦わら帽子をかぶせてもらった。夢ではない。確かな記憶だった。ぬくもりも、言葉も、何も思い出せないけれど、その広い影だけは強くケイトの心に残っている。
その義賊は、ノンフェイスと呼ばれていた。
生まれた土地ながら、知り合いも身寄りもない生活が始まる中で、その事実は彼女の心を暖かくするのだった。
2.
「これと、これを、1キロずつ」
「はい、1200マァムだよ」
駅にほどなく近い、古い商店通りは、早朝から人であふれていた。海に近いほうの市場とは違って食糧品が中心だ。もちろん、船から降ろされたばかりの物もたくさん並んでいて、料理人と思われる人々が、ケイト同様、一般家庭では使わないであろう量を買い込んでいる。
品は王都よりよっぽど安価だったが、家が商家だったせいだろうか、ケイトは無暗やたらに手を出すことはしなかった。客の動きを観察しながらいくつかの商店を買い比べ、じっくりと時間をかけて、夫の料理にふさわしい食材を選ぶ。この街に来てからの一ヶ月の買物で、本当に良心的な値段をつけている店がどこなのか、心得るまでになっていた。
「最近、いつも来てくれるね。これ、おまけしてあげるよ」
そう言って主人は、ひと掬いのナッツを袋詰めにした。
「まあ、ありがとう」
「何か商売でもしてるの? こんなに買い込んじゃって」
麦わら帽子をかぶった妊婦が毎朝商店通りで買い物をしている――それはケイトの知らぬ間に、店の主人たちの間で噂になっていた。しかもただの主婦ではない、とんでもない目利きだとも、談笑の中に含まれている。
そんなことを夢にも思わないケイトは、ただ店の人に覚えて貰えたことを嬉しく思った。
「ええ、夫と小さな食堂を。コレート川の、橋の通りの……」
「バーナ通りかい?」
「そうです、バーナ通り12番」
「あのへんも最近は治安が良くなったからな、繁盛してるんだろう。酒はそろってる?」
「もちろん」ケイトは酒が並ぶ棚の前に佇む夫の背中を思い出し、微笑んだ。
「そうか、じゃあ、仲間を連れてきっと行こう」
「特等席を用意して、お待ちしています」
買い物袋に食材を詰め込んで、ケイトは商店を後にした。おまけのナッツが、一番上で不安定そうにゆらゆらしている。
必要な食材を見合った値段で過不足なく買う。とても幸せなひとときだ。両手いっぱいの荷物がこぼれないように気をつけながら、来た道を戻る。
商店通りを抜けると、不意に海からの潮風が鼻孔をくすぐった。
振り返ると、張り出した橋の向こうに一面の青が広がっている。それは定規を引いたような麦わらのツバの下で、きらきらと光を反射し、思わずケイトは目を細めた。この街は、どこからでも海が見える。特に夏は、潮の香りでいっぱいになる。
しかしその青は、記憶の中のものと違っていた。もっと美しく、心の底から晴れやかになるような青を思い描いていたと言うのに、ちっともそんな青に出会えないのだった。焦がれるあまり、この海を空想の中で美化してしまったのかもしれない。もしくは船が増え、海が汚れてしまったのかもしれない。どちらにせよ、ケイトは昔のままの姿をこのトレドルに見出すことを早くに諦めていた。懐かしがってばかりもいられない。
それこそ気温など、覚悟していたよりとても暑い。
駆け足で過ぎ去る短い夏は、しかし例年と比べて涼しいのだと、食堂にやって来る地元の人たちが話していた。それを聞いて、ケイトもロンも苦笑いを浮かべたものだ。王都の夏は、もっと涼しかった。
早く慣れなくちゃ。
額ににじむ汗をぬぐい、口の中でそうつぶやく。
王都同様、ここも夏が長いわけではない。一年の大半は、寒い冬なのだ。王都で思い出すこの街の風景といえば、どこまでも青い風景と決まっていたのに、この季節を堪能できないのはなんだかもったいなく思えた。
川沿いの、比較的なだらかな道を下る。
河川敷は、朝のせいかひとけがない。昼間は海と駅とを往来する船でいっぱいだが、準備する人影もなかった。彼らの朝は、どうやら遅いらしい。
もうすぐだな、
ケイトは少し身構える。
市場へ行く途中、川から這い上がったような姿勢のまま息絶えている、男の死体を見つけたのだ。黒い汚らしいマントのようなものを広げて倒れていた。周囲に人がおらず、ここは工場や倉庫が立ち並ぶばかりだから誰かを呼びに行くこともできず、道中、警察に立ち寄ったが、まだ本格的に動く時間ではないからなのか、よくあることなのか、後で行くと返されただけだった。
気にしながら歩いていると、ほどなくしていくつかの人影が見えた。
初め、警察かと思ったが、違う。それは一目見て明らかだ。
どうやらまだ幼い男の子たちだと気づくのに、少しかかった。そして、彼らが死体の身ぐるみをはがしていると気づくのに、更にかかった。思わず立ち止まり、目を見張った。
ああ――
丘の向こうには、スラム街がある。まだこのトレドルが開拓される前から存在する、古い土地だ。親から行くことを禁じられていたこともあって、一度も足を踏み入れたことはない。けれどもスラムの人間は海のほうへ下りて来るし、そう、ノンフェイスはいつだって丘の向こうへ消えて行った。そのことを、すっかり忘れていた。
彼らはスラムの人間なのだろう。死体は金目のものを身につけているように見えなかったが、それでも彼らは、身ぐるみをはがさずにはいられないのだ。今日を生き長らえるかも分からないのだから。
ケイトは足元に左手の荷物を置き、中から先ほどおまけで貰ったナッツの袋を取り出した。
すっと息を吸い込み、
「おーい!」いっぱいに吐き出す。
あまり大きな声は出せなかったが、静かな川沿いいっぱいに響いた。彼らが振り返ったので、ナッツの袋を思い切り投げる。
きれいな放物線を描きながら、思ったより手前に落下した。それを見ていた全員が、こちらに視線を投げた。戸惑いの色を浮かべている男の子たちの中で、ひときわ背の高い、痩せ細った一人が、一歩、前に出た。日焼けした肌に、大きな青い目がぎょろぎょろとしている。警戒している目だ。
「あげる!」手を振って見せる。
背の高い男の子はナッツの袋を拾い上げた。
ケイトはまた両手に荷物を抱え、そんな彼らを横目に歩き出した。
このことを話せば、ロンはなんと言うだろう。
彼は王都で生まれ育った。裕福で清潔な環境に慣れ親しんでいる反面、旅行などで訪れる、まだ道路の舗装さえもままならないような貧しい土地にも強く憧れを抱いているようでもあった。だから、この土地を選んだのだろう。拡大をし続ける港町。けれどもロンの意識の中に、彼らの存在はあるのだろうか。確かな影と重みを伴って、生きているだろうか。
そのとき突然、ケイトの右手が軽くなった。
びっくりして、転げそうになる。
振り返ると、先ほど死体の周囲にいた男の子たちがいた。一人が、ケイトの荷物抱えている。
「だめ!」
思わず叫んだ。
しかし彼らはこちらに目もくれず、一目散に駆け出した。追おうとすると、どんと背後を突かれ、よろめいたと同時にたまらず左手の荷物を取り落とす。中身が広がり、丸い果物が坂道を転がった。はっと顔を上げると、小さな男の子がその果物を拾い上げる。
追いかける気にはなれなかった。彼らが走り着いたその先に、ケイトの視線のその先に、先ほどの痩せ細った背の高い男の子がこちらを睨むように見ていたのだ。とても大きな青い瞳。
なんてこと。
ケイトは座り込み、両手で胸を抑える。
散らばった物を集めなくちゃ。そう頭では分かっているのに、身体が思うように動かない。がたがたと身体は小刻みに震え、何度も何度も唾を飲んだ。恐怖ではない。ただただ驚いていた。こんなことをされるだなんて、思っても見なかったのだ。
「あーあ」
突然の声に、ケイトは弾かれるようにしてそちらを振り返る。
「お互い、散々でしたね」
見れば、大きな男だった。先ほどの子どもたちよりも酷く汚い格好をしている。写真でしか見たことのない、黒い着物を肩にかけていた。それがマントのように揺れ、ああ、生きていたのかとケイトは思った。あれは死体ではなかったのだ。
つまり男の子たちは、生きた大きな男の身ぐるみをはいでいたのだ。
「これ、いただいていいですか?」
潰れた瓜を差し出したので、ケイトは黙って首を縦に振った。
早く買い直さなくては。
男は瓜に齧りつきながら荷物を拾い集め、袋に戻す作業を始めた。ケイトも気を取り直し、少しずつ手を動かしながら、けれどもある一人の男のことを考えていた。
「ノンフェイス……」
「え?」
「彼は、まだこの街にいるのかしら?」
「何のことですか」
「知りませんか、この街の義賊です。この一ヶ月、噂はひとつも聞かないけれど、彼がいれば、あの子たちはこんなことをせずに済むかもしれないわ……」
7歳の頃、海辺で、ノンフェイスに帽子をかぶせてもらったときのことを思い出す。
広いツバが邪魔で、うんと首を伸ばしてその顔を見た。
よく覚えていないけれど、ノンフェイスはいつも決まってお面をしている。顔がわからない、だから、ノンフェイス……とても怖いお面だったかもしれない。ケイトはそのとき感じたことを、忘れてしまった。
でも彼の存在は、貧困層の生きる希望になっていたことは事実だ。
「ごめんなさい、なんでもないの」
散らばった物たちを集め終え、二人は立ち上がる。
「手伝ってくださって、ありがとう」
男の手から袋を受け取る。ツバが邪魔でその顔がよく見えなかったが、うんと首を伸ばして確認することはできなかった。
「ノンフェイスはきっといる」
男がそんなふうに言ったからだ。
そして聞き返す間もなく、こちらに背中を向けて行ってしまった。
3.
それからというもの、買い物の合間や食堂の常連客との間で交わす会話から、ケイトはノンフェイスに関する情報を少しずつ集め始めた。古い記録などは役所に保管された新聞記事を頼った。驚くことにそれはいつも小さな記事として扱われ、街の発展と照らし合わせながら見なくてはならなかった。
記憶の中では強固な存在感を伴っているのに、表舞台ではただの泥棒という扱いなのだろう。そのギャップに、ケイトはいささか悔しさを覚えた。
何枚か写真も見つけたが、どれも不鮮明で、小さく写っている。黒く肩まで隠れる頭巾、年齢も性別も分からない服装。夏も冬も、大して違いはない。お面は、どの写真も違うものだった。
一番古い記事は、五十年も昔のものになる。
「ま、長期間姿を見せないのは珍しくないよね」
パン屋の主人はそう言って、にっと白い歯を見せて笑った。
「南国に渡ってのんびりしているのかも」
ケイトは相槌を打つように少しだけ笑んだが、頭の中では疑問に思った。生きた男の身ぐるみをはぐ子どもたちがいるのだ。長期に渡って施しをし続けていた人間が、そう簡単に切り替えられるものだろうか。
「でも、いい歳ですもんね」ふとそんな考えが浮かぶ。
「歳?」
「ええ、五十年前から活躍してるって」
「ああ、ノンフェイスが不老不死って噂は知らないかい? おれもじいさんから聞いたんだけど、一度警察に捕まって処刑されてね」
「え、処刑? でも新聞にはそんなこと」
「揉み消したんじゃないの。だって汚点でしょ、どう考えたって。逃げられたんだから。はい、いつものおまけ」
ばさ、と主人はパンの耳が詰まった袋を差し出したので、ケイトは素直に受け取った。それがおしまいの合図だ。お互い、ずっと立ち話をしているわけにもいかない。ケイトは礼を述べ、閉店間際のパン屋を後にした。
こうしておまけを貰うことが、頻繁にある。この街に来て間もない上、子を宿していることが同情を誘うのかもしれない。ケイトはそれを快く受け取ったし、また、形の悪い果物や野菜、砕けた干し肉などを安価で譲ってくれと、自ら頼むこともあった。あまりにも値段が不当に高いと思われるものに遭遇したときは、たとえ予定になくとも、親譲りの交渉術で値切り、納得のいく値段で手に入れた。
ロンは何を届けても素朴ながらも美味しい料理に変身させてくれたし、日替わり定食の良いネタになると、喜んでくれているようでもあった。
商店通りの裏は、そこだけ天気が違うかのように薄暗い。汚いシャツを着た浮浪者たちが残飯をあさっている。また釣った魚や、どこかで拾ったのか盗んだのか、外国の品を売りつけている子どももいた。この通りは商店通りと繁華街とを最短で結んでおり、また古く、舗装のされていない道でもあった。そのまま丘向こうまで続いているため、浮浪者が多いのだ。
ケイトのように、近道にと使う街の人間も少なくはない。
そういった人間がやってくると、彼らは一斉にこちらを振り向き、品定めをする。立ち止まらずに駆け抜けなくては、取り囲まれ、身動きができなくなってしまう。
初めてこの道を利用したときは、そうなってしまった。腕を伸ばし、一様に手に持ったものを法外な値段で売りつけてくる子どもたち。ケイトはその迫力に圧倒され、目眩を感じ、逃げるように元来た道へと駆け戻った。そのまま建物の隙間から見える海を眼前に、夏の太陽がさんさんと光を降り注ぐその光景を前に人知れず涙を流した。色鮮やかでにぎやかな街の裏側がそんなふうになっていることなど、思いもしなかったのだ。
ショックだった。
また荷物を奪われるかもしれない。背中を押されるかもしれない。あの近道は、もう二度と利用すまいと心に決めた。
しかしその反面、子どもたちの眼差しが、物を伸ばす腕が、袖をつかむ小さな指先が、値段を叫ぶ声が、買い物中のケイトの脳裏によぎってはさいなませる。ノンフェイスのことを思い、彼の復活を毎日願った。願いながらも、不確かな存在へすがる自分が滑稽に思え、数日としないうちに、とうとうケイトは再びこの通りへと足を踏み入れてしまったのだった。
「60マァム!」
「違う、40マァムよ」
「百!」
「これは20。もっと良いものはないの?」
集まった子どもたちを、ケイトは眺め回す。
怯える必要はない、堂々としていればいい。こちらは客なのだから。
ノンフェイスのようにはなれない。ケイトの暮らしも、決して豊かだとは言えない。ただの同情で施しをするわけにはいかなかった。
「30マァム……」
女の子がおずおずと、手に持った小振りの花束を差し出した。季節の花だ。古い灯台のほうへ降りて行かなければ、咲いていない。合間に入った緑が、良いアクセントとなっている。摘んできたばかりなのだろう、茎も長く、花瓶に生けるのにちょうど良さそうだった。
ケイトは女の子の頭に手を置いて、微笑む。
「いいわ、30マァムよ」
ポケットから裸の10マァム硬貨を4枚取り出し、花束と交換した。そしておまけで貰った品々の中から必要のなさそうな物を選んで渡す。
「みんなで分けなさい」
日に一度だけ、こういうやりとりをした。数日続くと子どもたちはこのルールを呑み込み、今では習慣となっている。
偽善だ、と最初は思った。
けれども彼らの視線から逃れる術を、ケイトは知らなかった。真正面から受け止める以外に、方法がなかったのだ。
大丈夫、店に負担はかけていない。上手くやりくりしている。
ノンフェイスがいてくれれば……。彼らと接しているとき、ケイトは常に頭の片隅であの大きな後ろ姿を思い出していた。もし自分が妊娠をしていなければ――結婚をしていなければ――もしかすると、自分があの頭巾をかぶって夜の街を駆け抜けたかもしれない。そんな予感すら抱く。しかしそれは無意識の中で、踏みとどまる理由にもなっている。
相場を読みながらやりくりし、貧困層を相手に買い物をし、それでも浮いたお金は、普段からしている貯蓄とは別に貯めていた。何に使おうかなどは決まっていないが、何かには使えるかもしれない。
街自体がさして裕福なわけではない。裕福な層が贅沢な一軒家を並べ、大きな駅や立派なホテルもある隣には、汚染された水路や舗装されてない道がある。王都と最短の貿易港を持つこの街は、雪の中でも休みなく荷物を運ばなければならないため、除雪や人件費にかかる費用は想像を絶するだろう。貧困層への寄付金だと役所に渡したところで、何に使われるか分かったものではない。
かと言って、個人的にチャリティを開催するような流れもなかった。誰もが急ぎ足で、他人のことなど構っている暇もないようだ。通りによって生活水準が分けられているようにも感じられる。暗黙の了解で、通って良い道と悪い道があるのだ。混じり合うこともなければ、歩み寄ることもない。
トレドルとは、こんな街だっただろうか。知らない街に来てしまったのではないだろうか。記憶の中の街はもっと、活き活きとしていたように思えるのに。
ケイトは食堂の扉を開ける手を止めた。
誰かに見られている気配がして振り返ると、さきほどの女の子だった。手には何も持ってない。目が合うと、物欲しそうな眼差しをくれるではないか。ケイトは今日の分はもう終わりだと自分に言い聞かせ、少し微笑みを返して中へと入った。
貯金はもう、ある程度の金額に達している。それはロンも知っている。これ以上額が大きくなると、さすがに全額使わせてくれとは言い出し辛い。けれどもケイトは、彼らを思って貯めているお金なのだから、彼らのために使いたかった。
あの、眼差し。
どうすれば、彼らを笑顔に出来るのだろう?
「おかえり、ケイト」
キッチンで残飯を使った料理をしているロンが、顔を上げて出迎えてくれた。今は、ディナータイムが始まる前で、準備中である。簡単に掃除された狭いホールを横切り、ケイトはカウンターに荷物を置いた。
「ただいま。今日ね、アワビが凄く安かったの。あと房から実がたくさん落ちて、売り物にならないブドウをね、安くで譲ってもらった」
「さすがケイトだ、今日も良い買い物をしてるね」
袋から一つずつ取り出し、カウンターに広げていく。その間にロンは、残飯を混ぜたオムレツを皿に盛りつけていた。
「疲れただろう、暖かいうちに食べて」
焼けた卵のにおいを楽しみながら、ケイトは荷物の中から小さな花束を取り出す。カウンターの内側に置いてあった空き瓶の中からちょうど良い大きさのものを選び、水を満たして花を挿した。
「マイヤさんが、小さなカートを譲ってくれるって。買い物をするとき、ちょうどいいだろう? お腹も目立ってきたし、あまり重いものは持たないようにしないと」
「ああ、そうか、そうね」あまり考えたことがなかったので、ケイトは微笑んだ。ロンはいつも、この身体のことを気にかけてくれている。
カウンターの隅に花瓶を置いて、椅子に座った。
「ケイトは無頓着すぎるよ」
スープを用意したロンが隣に座る。その視線の先には、あの花がある。
ロンはいつも何も言わないが、本当は快く思ってないはずだ。それはなんとなく感じていたが、気づかない振りをした。
ケイトの身体が普通でない状態にあるから、好きにさせてくれているだろうということは分かった。ロンが黙認してくれていることに、ケイトは甘えているのだ。
暑い日が続いているとはいえ、暖かな食事は嬉しかった。刻まれた魚介が混ぜ入れられたオムレツはとても甘く、口の中を満たす。合間に飲む冷たいスープは少し辛めで、食欲をそそった。ついつい喋ることも忘れ、夢中になってスプーンとフォークを動かす。
空になった皿を前に、ケイトは布巾で口元を拭って水を飲んだ。
「ずいぶん早いね。お腹、すいてたの?」
ロンは、まだ半分ほど残っている。元から量が違うが、こんなに早く食べたのは久しぶりだ。
「そうみたい。美味しかったわ」
「まだ食べる?」
「もう、お腹いっぱい」
空いた食器を持って、シンクへと下ろす。洗いながら、彼らにも食べさせてやりたいと、そんな考えが浮かんでしまう。ロンは、彼らを笑顔にすることができるだろう。ここを訪れたお客たちもみんな、笑顔で帰る。
物欲しそうな眼差しではない、相手から上手く金品を騙し取って、得意げになっている目でもない、心の底からの笑顔が、見たい。
思わずため息がこぼれて、ケイトは慌てて口をつぐんだ。
「どうしたの、心配ごと?」しかしロンは見逃さなかったようだ。
「ちょっと、考えごと」曖昧に微笑んで見せる。
「考えごと?」
「料理って、人を笑顔にさせられるんだなって。そんな特技を持っているロンは、本当に素晴らしいわ。私は、だめね……」
「ケイト?」
レジの下に、お金の入った缶が置いてある。今日もいくらかあの中にお金を入れる。
どれだけの食材が買えるだろう。何人分の食事が作れるだろう。
「悩みなら何でも言って。ぼくに出来ることなら協力するよ」
いつの間にか立ち上がっていたロンが、ケイトの手を包み込んだ。
本当に相談しても構わないだろうか。
ロンは、嫌な顔をしないだろうか。
「料理を作って欲しいの、彼らに。そのお金で……」
ケイトの視線の先を、ロンは追おうとしなかった。代わりに手には力が込められ、その首は少しだけうなだれて清潔なうなじをケイトに見せた。
ああ、傷つけてしまった。後悔の念が襲って来る。
それに耐えるために、瞼を落とした。
深く。
4.
夏が終わろうとしている。
あれから半月、ロンは変わりない様子でケイトの身体を気遣い、接してくれている。ケイトも変わりなく日々を過ごした。あの日のことは、互いに触れずにいる。わだかまりとして残ってはいるけれど、話し合ってどうにかなるとも思えなかった。これは価値観の問題だ、それ以上でも、それ以下でもない。互いへの愛も変わらない。
ただ、あの通りを歩くといつも考えてしまうのだった。
丘へ吹き付ける風の温度が変わったのを肌に感じながら、ケイトは海沿いを歩いている。得意客のマイヤに貰ったカートは、タイヤを交換すれば難なく動き、ケイトの買い物を助けた。大きな段差のある道は避けなければならなかったが、馬車などが通る大通りを選べば済む話だ。
空気は少し湿り気を帯びている。今夜は雨になるかもしれない。
カートを押しているときは、あの通りへ行くことは叶わなかった。舗装されていない道は、タイヤを歪ませ、余分な力が必要と予想される。その間に荷物を取られては大変だ。ケイトがどれだけ愛情を持って接していても、彼らは平気でそういうことをする。これは事実だ。
もはや違う目を持っている。違う世界を見て生きている。彼らにとっての救いは、こんなちっぽけな施しではない。
ノンフェイス――。
彼がいれば、彼のその存在こそが、彼らの救いとなるだろう。それはケイトにとって、何故か絶対的な確信として胸の奥に潜んでいるのだった。あの黒い頭巾をかぶった男は、今頃どこで何をしていると言うのだろう。違う街へ行ってしまったのだろうか、もっと貧しい土地へ。そこで施しをしているのだろうか……。
ディナーへ向けた準備をする食堂へ戻ると、ロンが扉の前でモップを片手に、ちょうど入ろうというところだった。
「ロン!」
その背中に声をかけると、彼は振り返って、少しくたびれた笑みを作る。
「どうしたの? 表に出るなんて、珍しい」ロンは大抵、裏口を利用する。
「子どもたちが……」
「え?」
「いや、うん」
ロンはケイトを中へと促し、扉を締めてモップを片付けた。床には水を流した跡があり、湿った色をしている。
「最近涼しくなったでしょう。来週はもっと冷え込むと思うから、値が上がらないうちにお肉をたくさん買って来たわ」
いつものようにカウンターで買い物の品々を並べて報告するケイトに対し、ロンは浮かない顔をしている。何かをためらっているような、そんな表情だった。
「どうしたの、ロン?」
そんな些細な変化に気づかないほど、ケイトは鈍感ではない。手を休め、愛する夫の前へ回り込み、その顔をのぞき込んだ。
「もしかして体調が悪い? 予約もないし、今晩はお休みする?」
頬に触れようと伸ばした手を不意に捕まれ、口づけされる。
ケイトはまぶしいものを見るようにその青白い表情を見守った。灰がかった茶色の短いまつげが瞬いて、ケイトではない何かを見ている。
「少し考えたんだけれどね」小さな手の中で口は動かされ、ケイトはその吐息にくすぐったさを覚えた。
「うん」
「冬の間、王都に戻らないかい?」
捕まれていたはずの手はすとんと脇に落ちた。
「君の身体も心配だし、慣れない土地よりは向こうで産んだほうが良いんじゃないかって思ったんだ。冬の間、ここを借りたいって人もいるし」
どうして、
そう言葉にしたかったけれど、上手く音となってはくれなかった。乾いた咽喉に引っかかり、代わりに目から涙がこぼれ落ちた。
「旅費だって……、」うつむいて涙を拭いながら、囁くような声を絞り出すのがやっとだ。「旅費だって、ばかにならないのよ。一体どこからそんなお金が出るの?」
ロンは無言で優しく肩を抱いてくれ、ケイトはその温度に身を預けようとしてはっとした。
その腕を振り払い、レジ下の缶を取り出す。
「これね?」
ロンは無言だ。
「どうして勝手に決めるの?」
「今、相談してるよ」
「行かないわ、行かない」
「少しだけ距離を置いたほうがいいと思うんだ。君は肩入れしすぎたよ」
ロンがそう言ったとき、ケイトは何かを納得した気持ちになった。
「……最近は、何もしてないわ」
なのに、どうしてロンの言葉が正しく思えてしまうのだろう。
施しを続けたところで何も変わらないことは分かっていた。そう、確かに肩入れしすぎたのだ。この食堂の残飯を漁る浮浪者たちを、ケイトは知っている。通りに現れないケイトを探して店の周りをうろつく子どもたちを、ケイトは知っている。ロンが彼らに手を焼いていることも。
「迷惑をかけたわね」
「違う、ケイト」
「何が違うの? 迷惑だから、王都へ戻ろうって言うんでしょう?」
「落ち着いて。君を責めたいわけじゃないんだ。君は上手くやってくれて、感謝してる。でもね、子どもが生まれたときのことを考えて。僕はそれからのことを、大事にしたいんだよ」
王都で生まれ、育ち、ここに移り住んでからも外のことは妻に任せ、店の仕事で手一杯のロン。彼は死体から金目のものを盗む子どもたちを見たことがない。ゴミを漁る子どもたちを見たことがない。盗みを働いて、警察に追い回される子どもたちを、見たことがないのだ。いや、見ているのだろう、しかしあの眼差しを、真正面から受け止めようなどと思ったことがないのだ。
自分の手が届く範囲で、自分が好きなものを作って、それを認めてもらえて。
なんて、幸福な人だろう。
……それが、本音なんだ……
つぶやいたケイトの言葉に、今度はロンが苛立たしげに答えた。
まるで悪夢だよ。君は、義賊の真似事をしたいだけじゃないか――
ケイトは裏口から飛び出していた。
外は雨がしとしとと降っており、しかし麦わら帽子のおかげか気にならなかった。走り続けていると、やがて川へと出る。船の往来が激しいコレート川は、朝とは違った表情を見せている。小降りの雨の中、仕事中であろう作業服の男たちが、煙草をふかしていた。そしてここでも小汚い格好をした、一目見てそれとわかる貧困層の者たちが、露店を開いている。
何か、買おうかしら。
お金の入った缶を持ったまま、出て来てしまった。
ここにある金額ですべてを買う言ったら、喜んでくれるだろうか。恐縮させてしまうだろうか。いや、きっと、これを巡った喧嘩へ発展してしまうだろう。そしてケイトの周りには施しを受けようと人だかりが出来る。
分かっている。簡単にはいかない話だ。
一つの露店を覗き、一番高いサンドイッチを頼み、言い値から10マァム値切って買った。
偽善、だろうか。
私はノンフェイスになりたかったのだろうか。なれるのならとは思っていた。けれど……。
しなびた野菜と分厚いハムが挟まったサンドイッチの包みをふた切れ分受け取るが、お腹がすているわけではない。もてあそびながら雨を避けるようにテントの側を歩く。ぼんやりと、ただ漠然と、どうしてこうなったのだろうと考えていた。産まれ、7歳まで住んだ街。一番上の兄など、16歳までここにいて、立派な商人になっている。何も問題はない。この街で子どもを育てることに、ケイトは何も不安を抱いていない。
ロンが心配性なんだわ……この街のことを、あまりよく分かってない。だから、あんなふうに考えてしまうんだわ。……
不意に、麦わらを打つ雨脚が激しくなった。
突然のことに船は停滞し、男たちが簡易テントの下へと移動する。ケイトも吹き込む雨から逃げるようにして奥へと引っ込んだ。同時に空が光り、遠くで雷の音が響く。
その瞬間、どん、と脇に鈍い衝撃が走り、たまらずたたらを踏む。手の中から缶が強く引っ張られ、抵抗する間もなく奪われた。顔を上げると汚い格好をした若い女――そう、きっとケイトとさほど年の変わらない女がこちらに背を向けて駆け出した。
長く黄色い髪が、薄汚れてかすんで見える。振り返った彼女の前髪は何年も切られていないのだろう、無造作に長く、合間から覗く目はどこか得々とした光を宿してケイトを睨んだ。痩せた背中には赤子が、汚い紐で括りつけられている。
一瞬声を失い、しかし、見逃すわけにもいかない。
「待って!」
立ち上がろうとするが、足はスカートを踏み手は泥をかくばかり。女は身を翻して走り去る。
やっとのことでテントを出て土手へと上がるものの、川上へ消えたその背を追う気力など、ケイトのどこにも残されていなかった。きっと丘向こうのスラムへと行ってしまったのだ。
なんてことだろう。また、こんなことになるなんて。
ロンになんと言えば……。
悔しさと不甲斐なさは、怒りを伴って腹の底を熱くした。残されたのはサンドイッチが二切れのみ。こちらなら、いくらでもあげられたのに。
「もうっ……」
それを地面へと投げつけようとして、けれども出来ずに腕を垂らす。両手で顔を覆って、その場にうずくまった。
「もし、大丈夫ですか」
頭上から、どこかで聞いたような男の声が降ってくる。泣き顔を親しくない男に見られることを嫌って、ケイトは聞こえないふりをした。
「それ、いらないのならくれませんか。どうにも腹がすいてしまって」
サンドイッチのことを言っているのだ。
恥ずかしい。きっと、投げようとしたのを見られていた。
ケイトは麦わら帽子のツバで顔を隠しながら、どうぞとそれを差し出した。すると男は奪うようにして取り上げ、たった二口で平らげ、むせ、近くにできた水たまりから水を掬って浴びるように飲み始める。
あまりの豪快さに呆気に取られ、涙のことなど忘れてその姿に見とれていると、男は振り返り、口元を拭った。
「あんなふうに、金品を持ち歩いたらだめですよ」差し出された手には、ケイトの缶があった。「どうぞ受け取って。あなたのものだ」
そこでやっと、ケイトはこの男のことを思い出した。いつだったか、河川敷で倒れていた男だ。子どもたちに身ぐるみをはがされていた。
「差し上げます」言ってから、自分で驚いた。
でもこの男になら、あげてもかまわない。どうしてだかそう思った。どうしてだろう。浮浪者に奪われるのは悪くて、自分を助けてくれた者には良いのか。それこそ偽善ではないか。なんて不公平なのだろう。
「そういうわけにはいかない」
「じゃ、サンドイッチを買って」
偽善だとしても、その缶を手にする勇気がなかった。手にすればまた、使い道に思い悩むだろう。ロンを心配させ、苦しめる。だったら、無くなってしまったようが良いのではないか。
「もうおなかいっぱいです」
「私には、それを上手く使えないわ。誰も救えない……」
支離滅裂なことを言っていると、ケイトは分かった。会話が成り立たない。
何かを考える余裕がなかった。
「金は、誰かを救うために使うもんじゃない。単なる手段ですよ、奥さん」
再び雷が光り、尾を引いた音が辺りを支配する。
音が収まってから、ケイトは口を開いた。
「手段でも……」言葉が上手く出てこない。「手段でも同じ。私はそれを、上手く使うことが出来ないの」
ケイトは男の手の中にある缶を見つめ、うつむくと、きびすを返す。その瞬間、ぬかるんだ地面に足を取られ、身体がふっと軽くなった――と同時にぐっと腕を捕まれる。
腕に食い込んだ指の痛みよりも、自分の無神経さに驚いた。
耳元で声がする。
「危ない人だ、本当に妊婦か?」
「あ、ありがとう……」
恥ずかしさに、まともに男の顔が見られない。
きちんと足に力を込めて立ち上がる。そして無意識のうちに、お腹に手を添えていた。妊婦。そう、自分がしっかりしなければ、無力なこの子はいなくなってしまうかもしれない。あの女の背中に赤子を見て、その予感を初めて抱いたような気がした。
「これはいらない」
男はそんなケイトにかまわず、缶をその手に握らせた。
そして、
「代わりにこれをください」
ケイトの頭から麦わら帽子を取り上げた。
瞬間、
胸が高鳴る。
頭に直接雨が降り注ぎ、それ以上に視界を広く明るくした。雨は降っているのに空は晴れていた。そんなことにも気付かず、ツバで薄暗くなった世界を歩いていたのだ。
これが、この街の、夏の太陽なの?
青々とした空が、たまらなく壮大なもののように思えた。
夏の色だ。
王都の夏とは、まったく違う……。
そして心の底から晴れやかになる、焦がれていた青だった。
海ではない、空だったのだ。
思わず手を伸ばす。
ノンフェイスが翔けた空を焦がれていたのだ。
男が水を払うように帽子を振ると、引くように雨は止んだ。
「どう? サマになっているでしょう」帽子をかぶって、笑みを作った。
ケイトは微笑んで頷く。
記憶の中の風景と眼前に広がる景色が、初めて合致したかのように感じられた。
ロンの言い分はもっともだ。ケイトの中で、浮浪者とこれから生まれてくる我が子の問題は全く混ざり合うことのないものだった。それはケイトが子どもの頃、浮浪者たちと対峙したことがなかったからかもしれない。思えば親が守ってくれていたのだ。
幸福なのは、自分だった。
最初からこの街は、ありのままの姿をしていたと言うのに、勝手に視界を狭くしていた。一体、何を分かったつもりになっていたのだろう。それこそが最大の傲慢で、偽善ではないか。
何も変わってなどいなかったのだ。
ただケイトが自分で、その光を遮っていただけなのだから。
いつも当たり前のように、望む空はそこにあったのに。
「元気な子を産んで」
そう言って足早に立ち去ろうとする男の背中に、ケイトは慌てて礼を述べた。すると男は振り返らずに、帽子をひょいと持ち上げた。
「ケイト!」
男の向こうから、ロンが息を切らしてこちらへ走ってくる。手には傘を持っていた。心配になって、探しに来てくれたのだろう。
ケイトはその胸に飛び込んだ。
5.
色々なことをゆっくりと話し合おうと決めたその夜、騒がしさに二人は目を覚ます。警察は笛を鳴らし街中をかけずり回り、住人は寝間着のまま外へ飛び出して屋根の上を仰ぎ見た。
「何があったんですか?」
驚いた二人も外へ飛び出して、近くにいた人にそう訊ねると、
「ノンフェイスさ!」
彼は興奮した様子でそう答えた。
たったその一言で、ケイトもロンも目が覚めた思いがした。他の人たちも口々に彼の復活を称え、喜んでいる。お祭りのようだ。昼間でも、道にこんなに人があふれている様を見たことがない。
街の人たちと一緒になってその影を追い、一目見ようと深い青をした夜空に目を凝らす。
「あ!」
人々が口々に叫び、空を指さす。
本当に一瞬だけだったが、ケイトはその姿を見ることができた。もちろん、ロンも。
「ケイト、あれ」
ロンはケイトの肩に回した腕を、強く揺する。
「うん……うん!」
体中に喜びが満ちあふれるようだ。おかしくて、笑いが止まらない。
なかなかサマになっている。
そのノンフェイスは、麦わら帽子をかぶっていた。
- 了 -
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この作品は、関西コミティア37にて無料配布した「ノンフェイス 予告第2弾」を加筆修正したものです。
「ノンフェイス」本編は、2011年5月の関西コミティア38にて頒布予定です。
※√YOCOHACHIsmシリーズ同様、漫画と小説のオムニバスとなっております※
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